竹沢イチローの直感、発汗、第六感!!

現代アーティスト・竹澤イチローの日々是好日

私の幼年期〜青年期

 私は、北海道紋別市出身 https://mombetsu.jp/ の現代アーティスト、画家です。
本名「竹沢一郎 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%83%8E 」、雅号は「竹澤イチロー https://ichirotakezawa.gallery/ 」。
現在は、東京で制作活動を行っています。

 私は、オホーツク海に面した流氷の街、紋別市で生まれ育ち、その大自然の風景は、私の血となり肉となり、創作の源泉となっています。今日は、私の幼少期から青年期、そして私の故郷、紋別市への想いを綴りながら、皆さんと現代アートの世界を共有できれば幸いです。

🔵幼年期の記憶と現代アートの出会い

 もの心ついた3歳の頃から絵を描くのが大好きでした。クレヨンや鉛筆を握りしめ、真っ白いカレンダーの裏に無心で絵を描く時間は、私にとって至福のひとときでした。
7歳のある夜、母方の祖父(不藤茂)が私の眼の前で「ゲゲゲの鬼太郎」を何も見ないで 上手に描き上げてくれました。私も祖父に負けじと、ウルトラマンや怪獣を描いたものです。

 朝、クラスメートの前で、何も見ないでサラサラと、あしたのジョー妖怪人間ベムなどアニメの主人公やバルタン星人などの怪獣を描いて見せたので、クラスメートは、びっくり仰天!いつも私の机の中は、クラスメートのリクエスト作品を描くためのノートやスケッチブックでギュウギュウ詰めでした。
なぜ、ほかの子達は、絵が描けないのだろう?といつも不思議に思っていました。
 あの頃の純粋な気持ち、ワクワクするような高揚感は、今でも鮮明に覚えています。
 
 本格的に美術を学ぶようになったのは小学校高学年の頃だったろうか。上渚滑町に玉谷彰先生が主催する「双葉図画の会」という絵画教室がありました。ここで水彩や油彩の基礎を学びました。
 現在のピンクを基調とするポップな作品、ピンキーズポップ(私の造語)の原点は、小学校低学年の頃より、毎春5月頃、友人数人と自転車で20分ほどかかる隣町の滝上町

https://town.takinoue.hokkaido.jp/

へ観光名所になっている芝桜の群生を見に行ったことでした。山一面ピンク色におおわれた景色は圧巻で、その後の作品の原風景になっています。

 自宅周辺の広大な牧草地をトノサマバッタやキリギリスを追い駆け走り、木の実をほおばり、ザリガニやオタマジャクシを捕り、山や川を庭とし、雪が降り積もる川で泳ぎ、ヤマメやウグイを釣り、自由奔放、心ゆくままに自然と戯れ遊んだ少年期でした。

 中学校2年生の頃に精神を病んだものの無事、地元の紋別北高校普通科に合格。
高校時代は、公募展やコンクールに頻繁に作品を出品。
1982年「第14回道美展 https://xn--ygtp33f7pl.jp/ 」で、新人賞受賞/北海道立近代美術館(札幌)、「全日本学生美術展https://www.craypas.com/artexhibition/」は、佳作賞を頂きました。
高校生時代は、無口で友人も少なく、楽しい思い出は、ほとんどありません。
ただ絵を描くことだけが、私の唯一の自信と誇り、生きがいでした。

滝上町の芝桜

紋別

 高校卒業後、地元紋別市に開校2年目の道都大学美術学部https://www.seisadohto.ac.jp/

に入学し、伝統的な美術教育を学びます。
しかし、私にとっては、とても窮屈なものに感じられ、技術や理論を学ぶことは重要ですが、型にはまった表現を求められることに息苦しさを感じ、自分の表現方法を見失いそうになった時期もありました。

 そんな葛藤の中、出会ったのが、国際的に活躍していた現代アーティスト島州一(しまくにいち) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B7%9E%E4%B8%80 さんでした。
 道都大学美術学部美学教授、長谷川洋行先生の企画で「オホーツク・ワークショップ」を開催され、、前半は、舞踏家・石井満隆さん(ドイツ人の奥様、ベッティーナさんも参加)が、後半は、島州一さんが講師を担当しました。東京、横浜、旭川などからも参加者が集い、充実したワークショップでした。
私は、両方とも参加し、大きな影響を受けました。

 島さんは、99個のかまどを牧草地に作るという破天荒な試みでした。粘土を採取するため、自宅のトラックをお貸ししました。川に鯉のぼりを泳がせたり、椅子に座られるパフォーマンス、カルピスの商標、黒人の格好をして画廊に座っているなど、既存の概念にとらわれない自由な発想、そして型破りな表現方法。まるで心の扉を開け放たれたような、衝撃的な出会いでした。
 現代アートは、私の中に眠っていた創造性を解き放ち、再び絵を描く喜びを与えてくれたのです。同時にパフォーマンスを知ったきっかけも島さんのおかげです。
私が19歳のとき、島さんは、1980年から「昭和55年度文化庁芸術家在外研修生」としてパリに滞在していました。一ヶ月間のヨーロッパ一周美術館めぐり一人旅の際、パリの島さんのアパートに2日間ほどお世話になりました。
その間、島さんから少量の紙粘土と日本の浴衣を頂き、粘土を顔に塗り、浴衣とハッピ、酒屋の前掛けを身に着け大道芸人のメッカと言われるポンピドー・センター https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC 前で2日間にわたりパフォーマンスを決行!
太極拳に似たような即興ダンスで、多くの人が私の周りに集まり興味深そうに見ていました。

ポンピドー・センター前広場(in PARIS)でパフォーマンスをする私



つづく